三本木原の開拓と新渡戸家

写真左が新渡戸傅で右が十次郎。
十和田市は元々、荒れた台地で人家は数軒しかなく、作物も育たない場所でした。しかし、この広大な台地を見て「もったいない」と思った人物がいました。この人物こそ、十和田市の歴史の始まりとなった新渡戸傅と息子の十次郎です。
傅は、十和田湖奥入瀬渓流から三本木原(当時の十和田市)に水を引く事を考えます。水を引く為には、正確に奥入瀬渓流と三本木原の高さを測らなければなりませんので簡単な事ではなかったでしょう。また、その水は山の中を突き抜けて引かれています。このトンネル工事も当時の道具を考えると今では「不可能」とか「無理だろう」と言う言葉がピッタリです。しかし、水は三本木原を貫き、そして現在の十和田市でも人工河川「稲生川」には多くの水が流れ、田畑を潤しています。
十次郎は、十和田市の町並みの土台を鋭く作り上げました。当時の都市計画としては京都に次ぐ日本で2番目とも言われる碁盤の目の道を計画し実行。住んでいる人にとっては非常に使いやすいのが碁盤の目の道です。
ちょっと脱線…。
人工河川の稲生川には、歴史的な人物の係わり合いが多く、あの渋沢栄一もちょっと関連してきます。渋沢栄一が明治23年に渋沢農場を開設し以後60年の間、農場経営をおこないながら三本木原(現十和田市)開拓を担い続けました。
戦後の財閥解体で渋沢財閥も例外なく三本木にあった渋沢農場を整理する為に渋沢家から使わされたのが、渋沢栄一と孫の渋沢敬三の秘書兼執事をしていた杉本行雄。この杉本行雄こそが、三沢市にある古牧温泉の創業者となるのでした。
新渡戸稲造博士

五千円札の肖像にもなった新渡戸稲造博士。五千円札の肖像になった時には「誰?何をした人?」との声も聞かれました。今でも知らない人がいるでしょうねぇ。
「武士道」の作者って言っても「なにそれ?」って言われちゃいそうですが海外では、かなり有名(そもそも「武士道」は英語で執筆されてますしね。)農学博士であり、教育者でもあり、そして国際連盟の事務局次長でもありました。太平洋戦争の回避を最後まで実現しようとした人でもあります。
十次郎は稲造の父で稲造は、岩手県盛岡で生まれ。また祖父の傅は岩手県花巻で生まれで岩手県花巻市にも
新渡戸記念館があります。
十和田市の歴史がここに!新渡戸稲記念館

新渡戸記念館は、「太素塚」と言われる塚の敷地内にあります。「太素塚」とは、新渡戸傅と十次郎のお墓がある小高い丘を指します。現在は、建物が回りにある為に丘であるとは感じられません。
この新渡戸記念館には、人工河川「稲生川」の上水に関わる資料と稲造の資料が展示されています。
毎年5月3日には「太素祭」が行われます。
Link:
十和田市立新渡戸記念館
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